大判例

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大津地方裁判所 昭和57年(わ)19号 判決

被告人 中貝仁勇

昭九・一・二〇生 無職

主文

被告人を懲役一年六月に処する。

差戻し前の第一審における未決勾留日数中三六五日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、短気な性格で暴力行為の習癖を有する者であるが、さらに常習として

一  昭和四四年三月一〇日未明、当時京都市内で運転していたタクシーに乗り合わせた客の田端悦子(当時三四年)を同日午前二時三〇分ごろ、大津市皇子が丘一丁目一番一号所在の皇子が丘公園内の山道に連行し、とめた自動車内で同女に接吻をしかけたところ、同女が被告人の顔面を平手で叩いて抵抗したので立腹し、手で同女の顔面を二、三回殴打し、同女の両脇を抱えて車外に引きずり降ろしたうえ、路上に転倒した同女を引きずり、かつ同女の身体を数回足で蹴りつけ、よつて同女に対し、加療約二六日間を要する顔面打撲擦過傷、腰臀部打撲傷(血腫)、左下肢筋挫傷の傷害を負わせ

二  同月一九日午後七時ころ、京都市中京区烏丸四条上る地内の四条烏丸通りの交差点付近において、田中靖也(当時二九年)に対し、同人の車両の運転方法が悪いと因縁をつけ、「あぶないやないか、痰ぶつかけてやろか」等と怒鳴り、呆気にとられている同人の顔面をいきなり手拳で一回殴打し、その胸倉を押し、もつて暴行を加え

三  同年一〇月二四日午後零時五〇分ころ、同市右京区嵐山茶尻町四六番地の二浅田善次郎(当時七一年位)方居宅前を通りかかつた際、同人は当時被告人が居住していたアパートの管理人であつて、平素の被告人の言動からとかく相互の交際に円滑を欠いていたところ、被告人において、道路に面する台所にいた同人の方に向つて唾を吐きかけたので、同人から「大人気ないことをするな」と咎められるや、「なに、こら、出て来い、いてまうぞ」と怒鳴り、同人が「お前らみたいな前科者に出て行つたらやられるから、よう出んわい」など言つて奥の間に引込んだが、憤激をつのらせ、同家南側の庭先にまわり、同家南側の縁側から土足で同家奥六畳の間に上り込み、もつて故なく他人の住居に侵入し、着ていたジヤンパーを脱いでその場に叩きつけ、同人に向かい、「いてまうぞ、お前ら殺したかて三年、五年入つて来たらええのや」と怒号し、同人の身体に危害を加えるような気勢を示して脅迫し

たものである。

(証拠の標目)(略)

(被告人の主張に対する判断)

判示三の所為につき、被告人は罪を犯した覚えはない、浅田と会い、同人に前科者と言われたので、同人方居宅に入つて行つたものであつて、右は正当な行為である、また浅田に対し脅迫はしていない旨陳述する。(証拠略)によれば、被告人は、本件当時浅田善次郎が管理人をしているアパートに居住していたが、時折の被告人の言動がなにかと物議を醸し、勢い浅田らとの交際が円滑を欠いていたところ、昭和四三年八月中、被告人居住のアパート前で浅田と些細なことで口論立腹し、同人の顔面に唾を吐きかけ、同人に暴行を加え傷害を負わせたことがあり、この件で罰金刑に処せられたこともあつた、ところで本件は、被告人が浅田方居宅前を通りかかつた際、道路に面する台所で浅田が立つていたところ、被告人はなにゆえか同人の方に向つて唾を吐きかけた、同人の顔にかかつたとまでは思われないが、同人が腹立ちまぎれに、「大人気ないことをするな」と咎めるや、被告人は、すぐに反応し、「なに、こら、出て来い、いてまうぞ」と怒鳴り出した、そこで同人が「お前らみたいな前科者に、出て行つたらやられるから、よう出んわい」と応じたところ、被告人は、台所の引戸を開けて台所出入口に入つて来た、そのころ騒ぎの物音に気付いて浅田の内妻である佐藤静恵がその場に駆けつけ、浅田を奥の間に連れ込んだ、一方被告人の妻もやつて来て被告人を引張つて一旦戸外に出た、しかしながら被告人は収まらず、浅田方南側の庭先にまわり、同家南側の縁側から土足のまま同家奥六畳間に上り込んだ、そして着ていたジヤンパーを脱いでその場に叩きつけ、「いてまうぞ、お前ら殺したかて三年、五年入つて来たらええのや」などと怒号した、被告人の言辞や剣幕に恐怖を覚え、静恵が警察に電話するに及んだ、という事実が認められる。被告人は、証人浅田らの各供述は、まつたくの嘘言で出鱈目であると主張するのであるが、同証人らの各供述が嘘言であると疑うに足る資料はなく、その供述内容に不自然、不合理なところはない。被告人の捜査官に対する各供述調書によると、本件の事情は右とまつたく異なり、被告人が浅田方居宅前を通行していた際、連れていた子供がものにつまづいて転倒して泣いたのを浅田が見て台所の窓より「前科者の子供が泣きやがつてうるさい」と言うので口論になつた、同人方勝手口の土間で、出て来た同人の内妻や娘に「わしが何をしたのだ」などと言つていると、奥の間に居る浅田が「そんな前科者と話をするな」と放言するので、一層腹が立ち、庭先にまわり、奥の間に一、二歩上り込んだが、被告人の妻に抱きつかれ引張られたので、すぐ庭に下りた、旨供述する。なるほど、浅田が被告人に「お前らみたいな前科者に」などと口走つたことは、前記認定のとおりであるが、同人が右の発言をしたのは前記の事情のもとで一回限りの発言であることが窺えるのであつて、被告人が供述するように、同人において何度も被告人を前科者と罵倒する放言をしたとは認め難い。けだし、それまでの被告人と浅田との間柄からみて、また被告人の平素の言動を見聞し被告人を恐れている同人が軽々に被告人に向つて何度も前科者と放言すると考えるのは不自然といわざるをえない。本件の経過は判示のように認定できるのであつて、これに反する被告人の右供述は措信することができない。

ところで、被告人は、浅田から前科者と言われたので同人方居宅に入つて行つたものであつて、右は正当な行為であると主張する。もとより浅田が被告人に対し、「お前らみたいな前科者に」といつた発言は不穏当な発言であることは否めない。しかしながら事の発端は被告人のまさしく大人気ない挙動に由来するものであつて、近隣の居住者として浅田が被告人を咎めたのを強いて非難するには及ばない。続いての被告人の挑発的な発言に応じた浅田の前記発言は、いわば売り言葉に買い言葉といつた類いのものとみるべく、以後の被告人の所為は憤激に駆られた理不尽な行為であつて、これをもつて正当な行為ということはできないし、違法性を阻却するものではない。

被告人の主張は採用できない。

(累犯前科)

被告人は、昭和四一年三月一七日大阪高等裁判所において、暴力行為等処罰に関する法律違反の罪により懲役六月、原審の未決日数中本刑に満つるまでの日数を(法定通算に加え)刑期に算入する、との判決を言い渡され、右裁判は同年一一月一五日確定しているので、同日右刑の執行を受け終つたものであるが、右事実は検察事務官作成の前科調書(甲)及び右罪の裁判の判決書謄本によつて認める。

(法令の適用)

被告人の判示所為中、傷害、暴行、脅迫の各所為は包括して暴力行為等処罰に関する法律一条の三前段(刑法二〇四条、二〇八条、二二二条一項)に、住居侵入の所為は刑法一三〇条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するが、右の住居侵入と右の常習脅迫との間には手段結果の関係が存在すると考えられるので、刑法五四条一項後段、一〇条により結局以上を一罪として重い包括された常習暴力行為の罪の刑に従い処断することとし、被告人には前示前科があるので、刑法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、その刑期範囲内で被告人を懲役一年六月に処し、同法二一条を適用して差戻し前の第一審における未決勾留日数中三六五日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させない。

(量刑の事情)

被告人は、本件犯行以後新たに罪を犯して捜査機関の取調を受けたことはないが、本件犯行当時は前記認定のとおりその前一〇年間に四回の粗暴犯の前科を有し暴力常習者と評されて然るべきであるところ、更に破廉恥で悪質極まりない本件犯行に及んだものであるうえ、本件につき罪証明白であるのに種々詭弁を弄してその刑責を免れようとし、一片の反省の情すら窺われず、各被害者を非難こそすれ同人らに対する慰謝の方法は勿論講じられていない。

しかも被告人は、差戻し前の第一審の第六回公判期日(昭和四五年三月二三日)ころから一貫して裁判拒否の誤つた考えに固執し、被告人のためにその職責を果たそうとした国選弁護人に対しては公判不出頭や辞任を迫り、当審においてはこのような態度を一層強め、遂には、後述のとおり被告人の意に反して公判期日に出頭しようとした国選弁護人に対し耐え難い脅迫・暴行を加え、審理の正常化を図ろうとした裁判所に対してもいわれのない罵詈雑言を繰り返し、自らは出廷拒否に徹し、裁判拒否の目的を貫こうとしたのである。

以上の情状に鑑みれば、被告人には酌量の余地なく、また長期化した未決勾留についても、すべて被告人がその責を負わなければならない。

(本件公判手続について)

当裁判所は、本件の公判審理において、弁護人が不在廷のままで、第一〇回ないし第一二回の各公判期日に公判手続の更新手続を行ない、更に第一五回公判期日において、採用召喚済の弁護側申請証人の採用を取消して却下し、証拠調が終了したとして検察官に論告求刑を行なわせて審理を終結し、第一六回公判期日に判決を宣告したものであるが、本件は刑訴法二八九条にいう必要的弁護事件であるので、本件公判審理の経過と理由を以下に説明する。

一  本件公判審理の経過

1  はじめに

本件は、昭和五六年一二月一五日に大阪高等裁判所において差戻し前の第一審判決が破棄され、大津地方裁判所に差戻されたものである。

差戻し前の第一審の公判経過を要約すると、被告人が異常なまでの訴訟引きのばし、審理拒否の行為を繰返したため、第一回公判以来約一〇年間にわたり合計二七回の公判を開いて判決(昭和五四年三月八日)に至つたもので、被告人は、第六回公判期日以後においては、公判期日が指定されると必ず公判期日の変更の申立を行ない、又全審理期間を通じてではあるが、被告人の主張が容れられたことのなかつた裁判官忌避の申立一八回、裁判所書記官忌避の申立一回、管轄移転の請求一三回を弁護人不知の間に繰り返し、更にそれに対する裁判所の決定に対しては必ず不服申立を行ない、公判期日への不出頭、出廷拒否を反覆する(正当理由のない不出頭九回、勾引状の執行不能による不出頭三回、保釈取消執行未了による不出頭二回、勾留中の出廷拒否六回)一方、国選弁護人に対し公判期日への不出頭を要求していわれのない非難を浴せたうえ、その解任請求を繰り返したため、実に六名もの国選弁護人が逐次選任・解任され、遂には地元滋賀弁護士会は通常の手続による国選弁護人の推薦を拒むに至り、結局裁判所が個々に弁護士と折衝し、いわゆる一本釣りの方法により国選弁護人の就任を要請し、最終的には七人目の弁護人、八人目の弁護人を選任したが、右二名の国選弁護人も被告人から解任要求がなされるに及び、被告人の意に反してまで弁護活動ができないとして相次いで辞任届を提出した。裁判所は右の辞任を認めず、弁護人に再考を求めて出頭を懇請したが、事実審理の最後の期日となつた第二六回公判期日には被告人は出廷を拒否し弁護人は出頭しなかつた。そこで裁判所は、弁護人の不出頭は被告人の責に帰すべき事由に基くものであり、弁護人の不出頭により審理を進め得ないとすれば、被告人の恣意により裁判権の行使が阻害され裁判制度が否定される結果となつて不合理であり、もはや誰が国選弁護人として就任しても被告人の意に満たない結果となつており、被告人は裁判の進行を阻止する目的をあらわにして明らかに刑訴法二八九条を著しく濫用しているといわざるを得ず、かかる事態のもとでは同法条を適用しないことが例外的に許容され、弁護人不在のままの審理も許されるとの見解のもとに、已むなくその日の公判を開き、検察官申請の証拠書類二通の採用取調と弁護人申請証人一名の採用取消をし、検察官に論告を行なわせて結審し、第二七回公判において判決の宣言をした。

この第一審判決に対し被告人から控訴申立があり、前記大阪高等裁判所の差戻し判決となつた。控訴審の判決は、一審の審理経過やこれに対する被告人の対応の仕方については一審判決の説示と同一の認識に立ち、弁護人の辞任、不出頭は、被告人の不当な要求に由来し、被告人に帰責事由があり、被告人の態度は審理拒否、訴訟遅延を企図するものと評されても已むを得ないとしながらも、右弁護人の辞任、不出頭は、直接的には弁護人が辞任届を提出することによつて弁護人の地位を離れるとの誤つた見解に基くものであり、このような事態においてもなお国選弁護人の地位にある者が公判に出廷しないのは、その職責上許されるべきでないのであるから、右弁護人の不出頭は刑訴法二八九条の例外を認める根拠とはならない、とするものである。

以上の経過を素朴に回顧するとき、誰よりも責められるべきは被告人であることは明らかである。しかるに控訴審判決は、被告人の行動を非難しながらも、被告人のいわれなき非難攻撃と弁護士としての職業的良心との板ばさみになつて苦しんだ国選弁護人に、まだまだ職責を尽すには不充分でありなお公判に出廷して被告人の意思に抱束されないで被告人の正当な利益を擁護するため可能な弁護を尽せと要求して第一審判決を破棄したのである。その結果として、被告人をして永年の苦闘が報いられて今までの自己主張がすべて正しいものとされたという誤信と満足感を感得させ、それが更に凱旋将軍の如く振舞う行動へと発展して行き(昭和五九年二月三日付被告人作成の裁判官宛の意見書に添付の被告人発行にかかる「自らより」創刊号中の「弁護人抜き求刑は違法」と題する記事参照)、差戻し後の第一審の審理においても、控訴審判決というお墨付きをもらつたのであるから、国選弁護人さえ公判に出廷させないようにすれば審理拒否が成功する、との誤つた確信を植えつけさせたように思われる(以下に詳述する事実から推論できる)。

又、差戻し後の第一審裁判所が控訴審裁判所から事件記録を受理した昭和五七年二月二日現在において、二四名の会員しかいなかつた滋賀弁護士会の状況からして、控訴審判決が要請するような国選弁護人を新たに得られるかどうかも大いに問題の存するところである。

更に、右控訴審判決は被告人の控訴によりその控訴趣意を容れて第一審判決を破棄し差戻したものであるから、被告人につき保釈取消事由があつて保釈を取消し収監したとしても、その未決勾留日数はすべて法定通算される(刑訴法四九五条)結果、かりに身柄拘束して審理するとした場合集中審理方式をとり短期間に審理判決することを余儀なくされる。かかる事情の存在が、差戻し後の第一審の審理経過の中で私選弁護人によつて審理引きのばしの戦術を選ばせる導火線となつた、と思われる(後述)。

かくして差戻し後の第一審は、このような諸々の重荷を背負つてその幕を切つて落したのであつた。

2  裁判所(差戻し後の第一審即ち当裁判所を指す。以下特に断らない限り同旨)は、昭和五七年二月二日大阪高等裁判所から本件記録を受理するや、翌三日に保釈中の被告人に対し「弁護人選任に関する照会書」を発送したが、被告人の受取り拒否が続いたため、京都地方裁判所に嘱託して右照会書を同裁判所執行官により送達した(差し置き送達)うえで、四月三〇日滋賀弁護士会に対し国選弁護人の推薦方を要請した。同弁護士会は、漸く七月二〇日に至り、同弁護士会の「特別案件についての国選弁護人推薦に関する規則」に基づき、同弁護士会所属の篠田健一及び同野村裕を推薦した。裁判所は、同日右両弁護士を本件の国選弁護人として選任し、第一回公判期日を昭和五七年一〇月一八日午後一時三〇分と指定したうえで、被告人に対し右公判期日への召喚状及び国選弁護人選任通知書を発送したが、被告人の受取り拒否のため、京都地方裁判所に嘱託してこれらを同裁判所執行官により送達した)九月一八日差し置き送達)。被告人は、一〇月一四日に裁判所に対し野村弁護人の解任請求書及び公判期日変更申請書を郵送してきたが、右解任請求の理由は野村弁護士が共産党系の法律事務所に所属しているから嫌いであるというものであり、右公判期日変更申請は、右野村弁護人の解任の件が未決着であることと、自己が病気である(疏明資料の添付なし)こととを理由とするものである。

3  第一回公判期日(同年一〇月一八日)には野村(主任)、篠田両弁護人は出頭したが、被告人は出頭せず、野村弁護人が準備不十分を理由に公判期日の変更を申請したので、裁判所はこれを認め、次回期日を同年一二月六日午後一時三〇分と指定した(被告人の公判期日変更申請は同日却下)。

4  第二回公判期日(同年一二月六日)には、被告人は予め公判期日変更申請書を提出して出頭せず、弁護人両名も無断で出頭しなかつた。被告人の右公判期日変更申請は、病気(疏明資料の添付なし)を理由とするほか、差戻し前の第一審における審理方法に対する不満から出頭拒否を匂わせているものである。裁判所は、被告人の右変更申請を却下し、被告人及び弁護人の不出頭により公判期日を変更して次回期日を昭和五八年二月四日と指定(その後弁護人の申請により同月七日に変更)した。

5  弁護人両名は、昭和五八年二月三日、裁判所に対し意見書を提出したが、その要旨は、「被告人が裁判を拒否しているのは、差戻し前の第一審において、右第一審裁判所が選任した国選弁護人及びその弁護活動に問題があつたからであり、この問題に決着をつけず、専ら訴訟進行を図ろうとした裁判所の訴訟指揮が被告人に不信感を持たせた。この問題について裁判所及び弁護士会はそれぞれケジメをつけるべきであり、弁護人はこの問題についての裁判所の見解を聞いたうえで弁護活動(辞任も含む)を考える。」というものである。

6  第三回公判期日(同年二月七日)には、被告人は前回同様事前に公判期日変更申請書を提出したうえ出頭せず、弁護人両名も前回同様無断で出頭しなかつた。被告人の右公判期日変更申請は自己が病気である(疏明資料の添付なし)ことと私選弁護人を選任したいのでその準備中であることとを理由とするものである。裁判所は、被告人の右申請を却下したが、被告人及び弁護人の不出頭により公判期日を変更し、次回期日を同年三月一八日と指定した。

7  第四回公判期日(三月一八日)には、それまでと同様に被告人及び弁護人両名とも無断で出頭せず(但し野村弁護人は予め公判期日変更申請をしていた。同申請は同日却下。)、そのため裁判所は公判期日を変更し、次回期日を四月二五日と指定した。

8  裁判所は、三月一〇日、弁護人両名に対し、文書で第二回及び第三回公判期日にいずれも正当な理由がなく出頭しなかつたことにつき、刑訴規則三〇三条一項によりその理由の説明を求め、更に三月二三日には、滋賀弁護士会に対し、刑訴規則三〇三条二項により、正当な理由がなく公判期日に出頭しなかつた野村及び篠田両弁護人に対する適当の処置をとるべきことを文書で請求した。

9  篠田弁護人は、三月二八日、裁判所に対し意見書を提出したが、その要旨は、「本件担当の川口裁判官が、弁護人が要請した法廷外での被告人との会談を拒否したのは不当であり、川口裁判官の担当では本件は解決できず、裁判の強行を企図している裁判官の交替を求めるが、それが不可能なら弁護人を辞任する。」というものである。

野村弁護人も、同月二九日、説明書を提出したが、その要旨は、「差戻し前の第一審において、飯酒癖のある国選弁護人を付された被告人の計り知れない憤りは容易に推測できる。担当裁判官は、被告人に対し予断と偏見を抱いており、この問題を理解する構えを持つていない。」というものである。

右弁護人両名は、いずれも同日裁判所に対し、国選弁護人辞任届を提出した。

10  第五回公判期日(四月二五日)には、被告人及び弁護人両名は、いずれも無断で出頭せず、そのため裁判所は、公判期日を変更し、次回期日を六月六日と指定した。(主任弁護人野村裕は右期日の通知書を返送してきた。その後新たに国選弁護人となつた北川和夫弁護人の申請により右期日を変更、追つて指定となる。)

11  滋賀弁護士会は、裁判所からの篠田・野村両弁護士に対する適当な処置の請求を、新たな国選弁護人の推薦依頼及び右両弁護士の懲戒請求と受けとめ、その対応に苦慮した末、同年六月一日に至り、漸く前記「特別案件についての国選弁護人推薦に関する規則」の受任候補者名簿に登載されていない同弁護士会会長北川和夫を国選弁護人に推薦する旨の書面を裁判所に提出し、裁判所は、同日、右北川和夫弁護士を国選弁護人に選任した(野村・篠田両弁護人は同月三日付で解任)。北川和夫弁護士は、同月一日、裁判所に対し、いま一名の弁護士に対し国選弁護人を受任するよう依頼中である旨上申した。

次いで八月一八日滋賀弁護士会は、裁判所に対し右規則の受任候補者名簿に登載されていない同弁護士会所属の遠藤幸太郎弁護士を国選弁護人に推薦し、裁判所は、同月二六日、同弁護士を国選弁護人に選任したうえ、次回公判期日を九月二二日と指定した。

12  裁判所は、国選弁護人の解任及び選任通知書並びに次回期日への召喚状の送達を京都地方裁判所に嘱託し、同裁判所執行官はこれらを被告人に送達した(九月一四日差し置き送達)。

被告人は、同年九月一七日、裁判所に対し、新国選弁護人両名の解任請求書及び公判期日変更申請書を郵送して提出した。弁護人解任請求及び公判期日変更申請は、いずれも私選弁護人の選任を予定していることを理由とするものである。

13  第六回公判期日(九月二二日)には、遠藤弁護人は出頭したものの、被告人は出頭せず、北川弁護人も無断で出頭しなかつた。裁判所は、被告人からの公判期日変更申請を却下したうえ、次回期日を同年一〇月二六日と指定した。

北川弁護人は、一〇月一日裁判所に対し、第六回公判期日に出頭しなかつた理由について上申書を提出したが、その要旨は、

被告人中貝は、かねてから私に電話で「自分の考えに共鳴しない限り弁護人になるな、わしの許可なくして法廷に出るな。」などと強請し、あるいは、私の不在中に被告人が自宅に押しかけてきて、妻や子供に対し約四時間にわたり、「おやじが法廷に出ないように言つておけ。」などと執拗かつ強圧的な言動に出てきていたところ、第六回公判期日が迫つた九月一八日午後九時三〇分ころ、被告人から自宅に電話があり、応待に出た妻に対し、被告人の許可なくして裁判手続を進行させたことを難詰したうえ、「裁判になればわしの家族も不幸になるが、お前とこの家族の両手がそのままあると思つたら大間違いやぞ。」などと脅迫し、更に同日午後一〇時三五分ころ、被告人が自宅へ来たので、同人を中へ招じ入れようとしたところ、いきなり私の胸倉を捕まえ(このため私の半袖シヤツのボタンが四個飛散した)、「今日はケリをつけてやるから外へ出ろ。」などと強圧的な行動に出たので、已むなく自宅付近の裁判所の前庭まで同行した。そこで翌一九日午前一時ころまでの間、被告人から前同様家族に対する加害の意思を明らかにされるなどして脅迫され、出廷を断念するよう強請された。

そして被告人は、この間、私の身を案じて裁判所の前庭まで来てくれた遠藤弁護人に対しても、同日午前二時三〇分ころまで、私に対すると同様の脅迫的言辞により出廷を断念させようとした。

右のとおり、被告人の暴力、脅迫行為から、今後とも弁護人としてとどまる限り、家族の生活と安全を保障することができないし、またかかる被告人を弁護することは心情的に耐えられないので、弁護人を辞任することを決意し、とりあえず今回の公判期日に欠席した。

というものである。

14  裁判所は、一〇月一八日、検察官の請求を容れ、被告人が公判期日に正当な理由がなく出頭しなかつたことを理由に被告人の保釈を取消し、保釈保証金四〇万円を没取した。検察官は、同月二〇日被告人を収監し、滋賀刑務所拘置監に収容した。

15  遠藤弁護人は、一〇月二二日、被告人との面会のため滋賀刑務所へ赴いたが、被告人に拒絶され、面会できなかつた。同弁護人は、同月二四日、裁判所の示した次回以降の審理計画を了承したが、それによると、次回の第七回公判を含め実質審理に四回開廷を予定し、その期日は次回公判期日において一括指定することとし、昭和五八年中に結審するというものであつた。

16  被告人は、一〇月二四日滋賀弁護士会所属の武川襄弁護士を、同月二五日前記篠田弁護士をそれぞれ私選弁護人に選任するとともに、同月二四日裁判所に対し国選弁護人両名の解任請求書を提出し、併せて公判期日の変更を申請した。公判期日変更申請は保釈取消を非難して出廷しないという内容のものである。裁判所は、右私選弁護人両名が辞任したり被告人により解任されるおそれが顕著であることを理由に国選弁護人両名の解任をせず、また右公判期日変更申請を却下した。

17  第七回公判期日(一〇月二六日)には、被告人及び武川弁護人が出頭し、公判手続の更新が行なわれ(続行)、裁判所は、次回公判期日を同年一一月二日と指定した。

なお、この公判において、被告人は、裁判所に対し、保釈保証金四〇万円は武川弁護人が用立ててくれたものであるから、同弁護人に返還するよう要求した。

18  被告人は、同年一〇月三一日、裁判所に対し、武川弁護人の解任届を提出したが、その理由の要旨は、「同弁護人は本件公判に臨む被告人の意思をよく知つていながらその擁護に努めず、一丁上り式裁判を強行しようとする裁判所に協力し、第七回期日から僅か一週間後に第八回期日を入れたのは弁護士倫理に反する。」というものである。

武川弁護人は、同年一一月一日裁判所に対し弁護人辞任届を提出した。

ところが、被告人は、同月二日裁判所に対し武川弁護人解任届の撤回届を提出したが、その理由は、解任は誤解に基づくものであつたというのである(新たな弁護人選任届は同月一一日提出)。

19  第八回公判期日(一一月二日)には、被告人及び篠田弁護人が出頭し、公判手続の更新が行なわれ(続行)、裁判所は、次回公判期日を一一月三〇日と指定した。

20  第九回公判期日(同月三〇日)には、被告人及び篠田(主任)、武川両弁護人が一応出頭したものの、同期日の審理は午前一〇時から午後四時までの予定であつたのに、武川弁護人は、午前一一時三〇分ころ、病気治療(気道炎)を理由に退廷し、これに伴い、被告人及び篠田弁護人は、私選の両弁護人がそろつているのでなければ審理に応じられないと強硬に主張して審理の打ち切りを要求し、次回期日についても、両弁護人が出頭可能な日時でなければ受けられず、武川弁護人が在廷していないので追つて指定とするよう求めた。

検察官は、審理の内容は更新手続にすぎず、新たな攻撃防禦を行なうものでないから、弁護人一名が出頭していれば足りるとして反対したが、裁判所は、右要求を容れて審理を打ち切り、次回期日も追つて指定とした。

21  検察官は、同年一二月五日、裁判所に対し、「本件審理は、被告人の保釈取消、収監により正常化するかにみえたが、三期日が開廷されたにもかかわらず、更新手続が約二分の一程度終了したにすぎず、私選弁護人両名は、訴訟の遅延を企図している被告人に同調しているとしか解されず、被告人の身柄拘束の長期化を避け、早期結審を図るためには、土曜日であつても開廷し、集中的に審理を行なうべきである。」旨の審理促進に関する意見書を提出した。

22  裁判所は、審理促進のため早々に期日を指定するべく、同月三日ころからほぼ連日、裁判所書記官を介し、私選弁護人両名に対し、期日打合せのため来庁されたい旨申し入れたが、私選弁護人両名はこれに応じず、同月一三日に至り、裁判所書記官に対し、電話で一方的に、第九回公判期日から二か月後の昭和五九年二月一日を申し出てきた。

その後も、私選弁護人両名は裁判所に出頭しようとせず、昭和五八年一二月一九日に至り、ようやく、裁判所において、期日指定のための打合せが行われたが(検察官、私選弁護人のほか国選の遠藤弁護人も裁判所の要請により出席。)、その際、私選弁護人両名は、裁判所の「審理促進のため土曜日を含め、非開廷日であつても開廷し、一二月中に二回、来年一月中に四回程度開廷したい。」との意向に対し、「更新手続であつても重要な手続であり、おろそかにすることができず、両弁護人がそろつて出頭するのでなければ審理に応じられず、両名とも出頭可能な日は、来年二月一日しかない。裁判所がなぜ審理を急ぐのか理解できず、記録を読み直す必要もあるので、来年一月結審には到底応じられない。」旨主張し、他方では、「被告人を保釈してもらえるのであれば、集中審理にも応じるが、その言質がもらえない限り応じられない。」旨の発言をし、裁判所が右言質を与えなかつたので物別れに終つた。

更に、昭和五八年一二月二三日、裁判所において、前同様の打合せが行われたが(検察官、篠田、遠藤両弁護人が出席、武川弁護人は出張のため欠席)、その際、篠田弁護人は一二月中ならば一二月三〇日しか都合がつかぬと述べたため、裁判所が右各弁護人に対し、昭和五九年一月及び同年二月で土曜日を含め出頭可能な日時を教えてほしいと要請したところ、遠藤弁護人はこれに応じたものの、篠田弁護人は、「空いている日時はあるが、教えたら一方的に期日指定をされるおそれがあるので教えられない。公判期日は、あくまでも私選の両弁護人が出頭可能な日時でなければ受けられず、昭和五九年一月では一一日しか受けられない。」と主張してこれに応じず、早々に退席したため、期日指定には至らなかつた。

又、武川弁護人に対しても、同裁判所刑事首席書記官から、昭和五八年一二月二一日、電話で「出席できないなら、期日簿(手帳)を篠田弁護人に預けるか、一二月、一月で空いている日を教えるかしていただきたい。」旨要望したが、同弁護士はいずれも回答を拒否した。

23  検察官は、一二月二六日、裁判所に対し「私選弁護人両名が、被告人の審理引延し作戦に同調し、弁護権を濫用して集中審理を阻止しようとしていることが明らかとなつた。事ここに至つては、審理促進、早期結審のためには、遠藤弁護人の出頭可能日時に準拠して、本件審理を遂げるに必要な数期日を一括指定する以外に道はない。」旨の期日指定に関する意見書を提出した。

24  裁判所は、同月二七日、私選弁護人が申し出た昭和五九年一月一一日及び同年二月一日を含め、一月一八日、同月二一日、同月二八日、二月四日、同月七日、同月八日、同月九日の九期日を一括指定した。

25  私選弁護人両名は、昭和五九年一月一〇日裁判所に対し、裁判所の右公判期日の一括指定に対する異議申立書、及び右九期日のうち、同月一一日及び同年二月一日を除く他の七期日の取消しを求める公判期日変更申請書を提出したが、その理由は、「本件訴訟記録は膨大であり、弁護権の正当な行使のためには準備に十分な期間が必要である。」というものである。

26  第一〇回公判期日(昭和五九年一月一一日)には、私選弁護人両名は出頭したが、被告人は出頭しなかつたので、裁判所は、所要の手続を経たうえで、被告人の右不出頭は刑訴法二八六条の二にいう出廷拒否に該当するとして審理に入ろうとしたところ、篠田弁護人において、裁判所が私選弁護人の都合を聞かずに期日を一括指定したのは不当であるとの主張を執拗に繰り返したため、裁判所は、本日の審理とは関係がないとしてこれを制止し、同弁護人がこれを無視して発言を続けたため、裁判所は発言を禁止した。

その後、同弁護人は、不公正な裁判を行なうおそれがあるとして裁判官忌避を申し立てたが、裁判所は、直ちに、訴訟を遅延させる目的のみでなされたことが明らかであるとして、右申立てを簡易却下した。

この直後(午後二時三分ころ)、私選弁護人両名は、無断で席を立ち退廷しようとしたので、裁判所において在廷を要請したところ、「検討する」と言つてそのまま退廷した。

裁判所は、やむなく、五分間の休憩を宣し、弁護人が戻るのを待つたところ、両弁護人は、ようやく、午後二時四五分ころになつて入廷し、裁判所書記官に対し、裁判官忌避申立却下に対する準抗告申立書を提出した。

その後、武川弁護人は、「本日の期日は、午後一時一〇分とだけしか指定されておらず、何時まで開廷するかについては指定がなかつた。別の予定が入つている。退廷する。」と申し向けて席を立ち、篠田弁護人も、「私選の両弁護人がそろつているのでなければ審理に応じられない。」として同様に退廷しようとした。

裁判所は、両弁護人に対し、在廷命令を発する旨告げたが、両弁護人はこれを無視し、許可なく退廷した(午後二時四八分ころ)。

裁判所は、遠藤弁護人の出頭を求めて審理を行なうべく、書記官をしてその旨を電話で遠藤弁護人に伝えさせた。しかし、同弁護人は、来客中であるとして出頭に応じなかつたので、裁判所は休憩を宣した後、裁判官自ら同弁護人に対し、裁判官室の電話を使用して私選弁護人退廷の経緯を説明したうえ、審理への協力方を要請したが、同弁護人は、「私選弁護人がそれなりの方針で弁護活動を行なつている以上、国選弁護人の自分が出頭して弁護活動を行なうことはできない。」として出頭しなかつた。

裁判所は、右事態に至り、弁護人抜きでの審理も已むをえないとして、午後三時二〇分から午後五時まで、被告人、弁護人とも不在のまま、当日予定されていた公判手続の更新を行ない、更新前の証拠書類の一部を取り調べた(次回期日に続行)。

27  裁判所は、同月一二日、私選弁護人両名の前記公判期日指定に対する異議の申立てを棄却し、公判期日変更申請も却下した。

28  裁判所は、同月一七日、私選国選弁護人全員及び被告人に対し、第一〇回公判期日の審理内容及び次回公判期日の審理予定を告知し(公判調書の謄本を廷吏送達。以後各期日前に同様の告知)、被告人に対しては別に文書を発して同様の告知をするとともに出頭を勧告した(被告人に対しては以後各期日前に同様の文書を送付)。

29  第一一回公判期日(同月一八日)には、被告人は前回同様出廷を拒否し、私選弁護人両名は無断で出頭しなかつた。遠藤弁護人も、裁判官において電話で事情を説明し出頭を要請したが、前回同様の理由で出頭しなかつた。

裁判所は、已むなく前回同様被告人・弁護人不在のまま、予定していた公判手続の更新を行なつた。

30  第一二回公判期日(同月二一日)においても、前回同様、被告人は出廷を拒否し、私選・国選の各弁護人も出頭しなかつた。遠藤弁護人に対しては裁判官において電話で出頭を要請したが、前回同様の理由で出頭しなかつた。

裁判所は、已むなく被告人・弁護人不在廷のまま、予定していた公判手続の更新を行ない、これを終了した。更新手続に関する被告人らの意見陳述も予定されていたが、被告人・弁護人不出頭のため行なわれなかつた。

31  第一三回公判期日(同月二八日)においても、前回同様被告人は出廷を拒否し、私選・国選の各弁護人とも出頭せず、そのため裁判所は審理を行なわず、予定されていた被告人らの意見陳述或は被告人質問は行なわれなかつた。

32  第一四回公判期日(同年二月一日)には、被告人は出廷を拒否したが、私選弁護人両名は出頭し、裁判所は、検察官が取調べを請求した被告人の前科調書及び身上照会回答書をいずれも刑訴法三二三条一号により採用して取調べた。

その後、私選弁護人両名は、第一〇回公判調書の記載の正確性についての異議を申立て、更に不公正な裁判を行なうおそれがあるとして裁判官忌避を申し立てたが、裁判所は、直ちに、訴訟を遅延させる目的のみでなされたことが明らかであるとして、右申立てを簡易却下した。

このあと裁判所が弁護人に対し反証を促したところ、弁護人は、「本件被害者等の再尋問等を検討中であり、事前調査が必要であるので、二月の各期日を取消し、次回期日を三月に指定されたい。」と要求した。これに対し、裁判所は、差戻し前の第一審において証人に採用されながら取調未了であつた被告人の妻中貝富貴子だけを取調べる意向を表明したところ、弁護人両名は、裁判所の在廷命令を無視して退廷した。裁判所は已むなく以後の審理を打切り、次回期日の予定を告知して閉廷した。

33  遠藤弁護人は、同年二月一日裁判所に公判期日不出頭の理由についての上申書を提出したが、その要旨は、「北川弁護人同様、被告人から公判不出頭を要求され、もし出頭すれば、当職及び家族の身体に危害を加える旨脅迫されたが、職責を考慮し、かろうじて家族の身体の危険に対する不安を抑えて公判出頭を決意した。しかし、被告人が私選弁護人を選任し、私選弁護人においてそれぞれの思想と良心に基づいて弁護に当つている以上、その是非は判断の限りではないものの、私選弁護人の存在を無視して公判に立会うことは、弁護士間の信義に反するのでできない。又、被告人が私選弁護人を選任しているのに、当職において被告人の意に反する訴訟手続を進行させたら、被告人が激昂し、被告人の自分らに対する脅迫文言が現実化することが危惧され、不安を抑えることができない。」というものである。

34  第一五回公判期日(二月四日)には、被告人は前回同様出廷を拒否し、証人中貝富貴子及び私選・国選の各弁護人も出頭しなかつた。遠藤弁護人に対しては裁判官において電話で出頭を要請したが、前回同様の理由で出頭しなかつた。証人中貝富貴子は、不出頭について何の届出もなかつた。私選弁護人は、別の機会において、同証人は病気であると称するが、疏明資料の提出はなかつた。

裁判所は、已むなく被告人・弁護人不在廷のまま、右証人の採用を取消して申請を却下し、証拠調を終了したとして、予定どおり検察官に論告求刑を行なわせて弁論を終結し、先に指定済の二月七日午前一〇時を判決宣告期日と指定した。

35  弁護人武川襄は、二月六日午後七時三〇分裁判所に対し「弁論の再開の申立」と題する書面を提出した。その要旨は、証拠調の請求をするにつき準備期間が必要であり、弁論再開のうえ三月中旬以後に次回期日を指定されたい、というものである。

36  裁判所は二月七日に第一六回公判を開き、被告人が出廷を拒否し、弁護人も出廷しなかつたが、武川弁護人からの右弁論再開の申立を却下し、判決を宣告した。

二  被告人及び私選弁護人の本件公判に臨む態度について

1  被告人の公判に臨む態度

被告人は、前記(一の1)のとおり、差戻し前の第一審において審理拒否の目的のため、自らは断固として公判出頭を拒否し、他方、国選弁護人に対しては公判不出頭を強要し、公判に出頭しようとする国選弁護人に対してはこれを非難して辞任を迫り、結局国選弁護人八人を辞任の已むなきに至らせて最終的には公判に弁護人不在の状態を作出し、差戻し前の第一審だけでも判決宣告までに約一〇年を要するという異常な事態を現出させ、著しく裁判を長期化させたものであるが、当審においても、基本的にはこの判決拒否の態度を貫き、これを一層徹底させているのであつて、このことは前記公判経過に徴すれば明白である。

即ち、被告人は、保釈取消により収監されるまでは、弁護人選任に関する照会書や国選弁護人選任通知書或は公判期日への召喚状の受取りを拒否し続け、右郵便による送達のほかに封書により送付した前記各書面も未開封のまま返送するなどして公判期日には一度も出頭せず、他方何らの疏明資料をも添付することなしに、病気或は私選弁護人選任を理由に公判期日の変更の申立を繰り返し、北川及び遠藤両国選弁護人が被告人の意に反して公判期日に出頭し弁護活動をする意図を察知するや、その出廷を断念させるべく右両名に対し脅迫或は暴行を加えるなどの所為にまで出ているのである。

そして被告人は、昭和五八年一〇月二〇日保釈取消決定により収監されるや、突如被告人の審理拒否闘争の意図に同調する篠田、武川両弁護士を私選弁護人に選任したうえ、裁判拒否、審理遅延を企図しているのであつて、このことは、昭和五八年一〇月二四日以降判決宣告までの間に実に一二回にも及ぶ裁判官忌避の申立、第一回公判期日前からの多数回にわたる公判期日変更申請、あるいは国選弁護人解任請求、更には二回にわたる管轄移転請求を行なつている(いずれも被告人の主張が容れられたことなし。)ことや、武川弁護人が第七回公判期日(昭和五八年一〇月二六日)において、一週間後の同年一一月二日を第八回公判期日とすることに同意したところ、これを一丁上り式裁判に協力するものと非難して同弁護人を解任したこと(この解任は間もなく誤解に基づくものとして撤回している。)、第九回公判期日において、同弁護人が病気治療と称して退廷するや、篠田弁護人をして私選の両弁護人が揃つていなければ審理に応じられないと強硬に主張させたこと、第一〇回公判期日(昭和五九年一月一一日)以降の公判期日には、何ら正当な理由がないのに出廷を拒否していることなどの諸事実により極めて明白といわなければならない。

2  私選弁護人の公判に臨む態度

(一) 武川弁護人について

同弁護人は、差戻し前の第一審において昭和五二年一二月一九日国選弁護人に選任された(前記一の1に記載の七人目の国選弁護人)が約一年後には、被告人との信頼関係の欠如を理由に辞任届を提出し(但し、差戻し前の第一審裁判所は辞任を認めず)、控訴審判決で違法手続であると指摘された差戻し前第一審の第二六回公判にも出頭しなかつた。

ところが、同弁護人は、控訴審においては、一転して被告人から私選弁護人に選任され、控訴趣意書を作成提出し、被告人の保釈保証金四〇万円も自ら出捐したのであるが、約七か月後に被告人から解任請求されるや又もや信頼関係の欠如を理由に辞任した。しかも、控訴審裁判所が同弁護人らの主張した弁護人抜き裁判が違法であるとの控訴趣意を容れ、原判決を破棄したにもかかわらず、同弁護人は、差戻し後においては、滋賀弁護士会内に被告人の弁護を引き受けて公判に出頭しようとする弁護士がいなかつたのに、自ら被告人の弁護を引き受けようとはせず、同弁護士会会長北川和夫が会長としての責任から国選弁護を受任するの已むなきに至つているのである。

しかるに、武川弁護人は、被告人の保釈が取消され、国選弁護人遠藤幸太郎の協力により、本件審理が正常化に向かおうとするや、突如、無報酬で被告人から私選弁護人に選任され(被告人の昭和五八年一二月二二日付裁判官忌避申立書)、更に同年一〇月三一日、被告人から一丁上り式裁判に協力していると非難されて解任されながら、被告人が誤解していたとして解任を撤回するや、再度私選弁護を受任しているのである。

右のような武川弁護人の去就は、法曹人としてまことに不可解な行動というほかはないが、同弁護人に一貫しているのは、常に被告人の意思に添い、被告人の裁判拒否・審理遅延戦術を支持する行動をとつていることである。同弁護人の本件についての弁護人としての去就やその活動に徴すれば、同弁護人は、被告人の裁判拒否の信念に共鳴し、これと一体となつて行動しているものと解さざるを得ない。

(二) 篠田弁護人について

同弁護人は、差戻し後の昭和五七年七月二〇日裁判所から国選弁護人に選任されながら、第二回ないし第四回公判期日に正当な理由がないのに出頭せず、昭和五八年二月三日裁判所に対し、被告人がかねて不当と主張している差戻し前の第一審における初期の国選弁護人の選任及びその弁護活動について、裁判所は裁判所としてケジメをつけるよう求める意見書を野村弁護人と連名で提出し、これが認容されないとみるや、同年三月二九日、裁判の強行を企図している裁判官のもとでは審理に協力できないとして辞任届を提出し、同年六月一日前記北川国選弁護人の選任後同月三日に解任されたのであるが、その後、被告人が保釈を取消されて収監され、国選弁護人の協力により審理が正常化に向かおうとするや、突如、武川弁護人同様、無報酬の私選弁護人として登場してきたのであり、篠田弁護人の右の行動は、法曹人としてまことに理解に苦しむものといわねばならない。

同弁護人は、第八回及び第九回公判期日には出頭し、審理に応じているものの、これが真に裁判の正常化に協力する意図に基づくものでないことは、その後の経過からみて明らかである。

即ち、同弁護人は、第九回公判(昭和五八年一一月三〇日)において、武川弁護人が病気治療と称して退任した後、審理時間が未だ約三時間半も残つており、しかも審理予定が公判手続の更新手続で新たな証拠調手続でもないのに、私選の両弁護人が揃つていなければ審理に応じられない旨強硬に主張して、審理を打ち切り次回期日を追つて指定とするの已むなきに至らせながらも、裁判所の期日打合せのため来庁されたいとの度々の要請にも言を左右にして応じず、既に同年一二月中に期日を入れることが事実上困難となつた同月一九日以降になつて出頭に応じたものの、裁判所の公判期日を数期日一括して指定したいから空いている日を申し出られたいとの要請を拒絶して退席し、裁判所が已むなく国選弁護人の都合を聞いたうえでした公判期日の一括指定に異議を申立て、公判期日の取消を請求し、或は第一〇回及び第一四回公判において徒らに裁判官忌避を申立て、無許可で退廷し、第一一ないし第一三回及び第一五回公判期日には正当な理由もないのに出頭しないなど、明らかに被告人の審理拒否目的に同調し、自らも被告人の身柄釈放までに裁判所が実質審理に入ることを妨害する目的で審理引きのばし戦術をとり(前記一の1参照)、被告人と一体となつて行動しているものといわざるを得ない。

三  私選弁護人と国選弁護人との併存について

1  被告人が昭和五八年一〇月二四日武川襄弁護士を、同月二五日篠田健一弁護士をそれぞれ私選弁護人に選任した段階で、北川、遠藤各国選弁護人を解任するのが通常の状態ではあるが、被告人の私選弁護人選任の直接の目的は、被告人もいうように、被告人の脅迫にも屈せず遠藤弁護人が同年九月二二日の第六回公判期日に出廷したため、これを排除するためのものである(被告人の同年一一月二八日付裁判官忌避申立書)ことが推測し得たので、国選弁護人を直ちに解任することはしなかつた。即ち、私選弁護人の選任により裁判所が国選弁護人を解任した後、被告人が私選弁護人を解任した場合のことを考えると、国選弁護人選任の前記経緯(破棄差戻し前の第一審から当審の北川、遠藤両国選弁護人の選任に至る一連の経緯)からみて判るように、次に国選弁護人となる人を得るのは極めて困難な状況に立至ることは明瞭である。果せるかな、被告人は同年一〇月三一日私選の武川弁護人を解任するの挙に出たのである。この解任劇はその後被告人が誤解していたとして撤回されたが、自己の信念や意思にそつた行動をとらない私選弁護人は一方的に解任するという被告人の行動基準を示すものとして象徴的なものであり、国選弁護人存置の必要性を痛感させられたのである。

2  もとより、私選弁護人が存在し、それが法に則つて定められた公判期日に出頭し、刑訴法や刑訴規則に従つた弁護活動を行なう限り、国選弁護人が二重に付される必要がないばかりか、選任権者の差異からむしろ有害である場合もないとはいえない。しかし私選弁護人が裁判官の訴訟指揮に従わず、或は殊更にこれを無視するような態度に出、更には私選弁護人が被告人と共同し意思を通じたうえ適法に定められた公判期日に特段の理由なく出頭せず、自己の欲する期日にのみ出頭するということがあるとすれば、まさに公判期日の指定は弁護人のなすところとなり、刑訴法二七三条は空文に帰するのであつて、第九回公判期日以後における本件審理の経過はまさしくこのような事例に該当すると解されるのであり、私選弁護人の不誠実な訴訟活動に対処するため、刑訴法二八九条二項の解釈上長期的な国選弁護人の選任も可能であるから、本件においても国選弁護人を解任しないまま結審を迎えたのであり、まことに已むをえない措置であつた。

3  被告人が昭和五八年一〇月一八日付保釈取消決定に基き同月二〇日収監されたことにより、集中審理、早期結審の必要性が生じ(前記一の1参照)、これとともに、これに対する被告人及び私選弁護人側の審理引きのばし戦術とが相剋するに至つた。その経過は同年一一月三〇日の第九回公判期日以降同年一二月二七日の公判期日一括指定までの前記説示のとおり(一の20~24)であり、私選弁護人において一二月二〇日ころまで次回期日の打合せをしなければ一二月中の日を次回期日と指定することが極めて困難となることを見越して、期日の打合せを意図的に避けていたと判断せざるを得ず、被告人の未決勾留日数がすべて法定通算されることから被告人の身柄釈放期日を計算に入れ、その日まで実質審理を進めさせないよう画策していたことは明白であり、その後の私選弁護人の行動、殊に適法に定められた公判期日に特段の理由なく出頭せず、自己の欲する期日にのみ出頭し、出頭しても公判調書の正確性についての異議や裁判官忌避申立を繰り返して実質審理に入ることを妨害し、自らの要求が容れられないと見るや無断退廷を繰り返し、証拠調期日を被告人の身柄釈放期日の後である昭和五九年三月以降にしてほしい旨上申している等の行動は、これを証明するに充分である。昭和五八年一二月二七日付公判期日の一括指定は、裁判所の度重なる要請にもかかわらず私選弁護人の協力が得られないため、已むなく、主として国選弁護人の都合を聴取したうえでなされたものであるが、審理の正常化に向けて大きく前進したものであり、被告人の解任要求にもかかわらず国選弁護人を解任しなかつたことが、この審理の正常化にすぐれて役立つといえるのである。

四  弁護人が不在廷であるのに開廷し公判手続を進行したことについて

1  本件は刑訴法二八九条の必要的弁護事件であるところ、前記のとおり、第一〇回公判期日において篠田及び武川両私選弁護人が審理の途中から無断退廷して不在となつた後も、当該期日に予定されていた公判審理を進め、また、第一一回及び第一二回の各公判期日には、篠田、武川両私選弁護人及び北川、遠藤両国選弁護人がいずれも不出頭であつたものの開廷して当該各期日に予定されていた公判手続を進め、第一五回公判期日においても、私選弁護人及び国選弁護人がいずれも不出頭のまま開廷して当該期日に予定されていた公判手続を進め、証拠調を終了したとして検察官に論告求刑を行なわせて結審したのである。

2  そこで必要的弁護事件の本件において、弁護人不在廷のまま開廷し審理したことが刑訴法二八九条に違反するのではないかとの問題が存するが、私選弁護人が裁判所の許可なく無断退廷し、或は正当な理由がないのに公判期日に出頭せず、被告人がこれを要求又は了承するなど、そのことについて被告人に帰責事由があるだけでなく、被告人及び私選弁護人が必要的弁護制度を楯にとつて訴訟の遅延を図り、その目的を実現するため出頭拒否や出頭しても無断で退廷する等の不法な直接行動によつて裁判所に圧力をかけようとする本件の如き場合には、必要已むない限度で刑訴法二八九条の例外を認め、弁護人不在廷のまま審理することは、憲法、刑訴法等の法秩序全体の精神に照らし許容される場合があると解すべきである。

即ち、被告人は、前記のとおり、保釈取消により収監されるまでは、裁判所から送付される一切の書類の受領を拒み、公判期日には一度も出頭せず、他方何らの疏明資料をも添付することなしに、病気或は弁護人選任を理由に公判期日の変更の申立を繰り返し、剰え北川及び遠藤両国選弁護人が被告人の意に反して公判期日に出頭し弁護活動をする意図を察知するや、その出廷を断念させるべく、右両弁護人に対し、脅迫或は暴行を加える行為にまで及び、被告人の右所為にも屈することなく遠藤弁護人が第六回公判期日に出頭したため、篠田及び武川両弁護士を私選弁護人に選任して国選弁護人の解任を要求し、また、右私選弁護人両名は、ともに被告人の審理拒否、訴訟遅延の目的に同調し、第九回公判期日において次回期日を追つて指定とされたいとの要請に応じた裁判所の善意を踏みにじり、以後被告人と意思を相通じて公判期日の指定に協力しようとせず、意図的に裁判官との接触を避け、期日指定のため来庁されたいとの要請にも言を左右にして応じず、右第九回公判期日から二〇日以上も経てから漸く裁判所に出頭したものの、被告人から受任の際私選弁護人両名が揃つて公判に出廷することを約束したから一名のみの都合では期日を請けられないとの理由(その理由の不当なことは明らかである)で、空いている日を開示されたいとの裁判所の要請にも、開示すればその日に期日を指定されるから困ると称して開示を拒み、期日の打合せができず、已むなく裁判所は遠藤国選弁護人の都合を聞き、昭和五八年一二月二七日に、私選弁護人が申し出ていた二期日を含め昭和五九年一月一一日、同月一八日、同月二一日、同月二八日、同年二月一日、同月四日、同月七日、同月八日及び同月九日の九期日を一括指定した(期日指定の経過の詳細は前記一の20~24)。しかるに私選弁護人両名は、自らの申し出た二期日の公判には出頭したものの、裁判官忌避の申立や公判調書の正確性についての異議を繰り返して実質審理に入ることを妨害し、自らの要求が容れられないと見るや無断退任を繰り返し弁護人不在の状態を作出し、又自らの申出た二期日以外の期日には正当な理由なく不出頭を繰り返してこれ亦弁護人不在の状態を作出したのである。こうした被告人及び私選弁護人の所為は、まさしく刑訴法二八九条の濫用である。裁判所としては、第一〇回公判期日における弁護人の無断退廷後の審理、第一一回及び第一二回各公判期日での弁護人不出頭のままに行なつた審理はいずれも訴訟遅延を防止するため真に已むを得なかつたのであり、第一三回公判期日は被告人らの意見陳述や被告人質問を予定していたが、被告人が出廷を拒否し弁護人が不出頭であつたので審理を行なわず、第一四回公判期日において私選弁護人両名出廷のもとで検察側立証を終え、第一五回公判期日において弁護側申請の証人一名の取調と被告人質問、場合によつては結審までを予定したが、被告人が出廷を拒否し、証人及び弁護人がいずれも不出頭のため証人採用を取消して請求を却下し、証拠調が終了したとして検察官に論告求刑を行なわせたうえ、弁護人の最終弁論及び被告人の最終陳述を聞くことなく結審したものである。この第一五回公判における弁護人不出頭のままの審理も、かたくなに出廷を拒否する被告人及び弁護人に対する説得はもはやその効なく、殊に私選弁護人は自己の申出た二期日(第一〇回及び第一四回公判期日)以外には出頭を拒否する態度を崩さず、従つて今後期日を続行しても出廷の見込みは全くなく、裁判所としてはまさに万策尽きたというの他なく、訴訟遅延を防止するためまことに已むを得ないものであつた。

本件はこのように刑訴法二八九条が本来予想しなかつた事態であり、かかる場合でも刑訴法二八九条を墨守するときは、訴訟の進行は弁護人の意のままに運用される結果となり、迅速な裁判はもとより司法の信用をも失墜させるという重大な事態を招来することになり、まさに司法の自殺行為に他ならない。このような異常事態のもとで、裁判所が予め被告人及び弁護人に告知しておいた事項について、弁護人不在廷のまま公判審理を進めた措置は誠に已むをえないものであつて、同法条の例外として許容されると解する。

もつとも本件では私選弁護人の他に国選弁護人二名が併存していたのであるから、刑訴法二八九条二項を適用して国選弁護人の出廷を待つべきであるのに、そのようにしなかつたことについて触れて置く。

3  北川弁護人について

北川弁護人は、前記のとおり、昭和五八年六月一日、滋賀弁護士会の推薦に基づき裁判所から国選弁護人に選任され、第六回公判期日(昭和五八年九月二二日)には、かりに被告人が不出頭でも出廷し被告人のため可能な弁護活動をする旨を表明していたものである。

ところが、同弁護人の右意図を察知した被告人は、自己の審理拒否の目的に添わないとして九月一八日の深夜、二~三時間にわたり、同弁護人に対し暴行脅迫を加え、出廷を断念させようとした。その暴行脅迫の態様は、前記同弁護士の上申書に詳述されている(前記一の13)が、胸倉をつかみシヤツのボタン四個が飛散するほど強く引張り、或は、「裁判になればわしの家族も不幸になるが、お前とこの家族の両手がそのままあると思つていたら大間違いやぞ。」などと言つて脅迫するなど、およそ常識では考えられぬような所為に出ているのであり、このため同弁護人は、今後とも国選弁護人としてとどまる限り、家族の平穏な生活と安全を保障することはできないし、またこのような被告人を弁護することは心情的に耐えられず、国選弁護人を受任した信条には反するが、被告人の弁護をすることはできない、という理由から、その後の各公判期日にいずれも出頭していないのである。

右のように、北川弁護人の不出頭は、被告人の暴行・脅迫による出頭阻止の結果であり、何人も右不出頭を非難することはできないし、このような場合には、同弁護人不出頭のまま行なわれた公判審理は刑訴法二八九条の例外として許容されなければならない。

4  遠藤弁護人について

遠藤弁護人は、前記のとおり、昭和五八年八月二六日、滋賀弁護士会の推薦により裁判所から国選弁護人に選任され、第六回公判期日には出頭し、被告人が収監されるや、被告人と面会するべく滋賀刑務所へ赴いたり、裁判所との間で審理計画等につき打合せをし、本件の審理正常化に協力しようとしていたものである。ところが、その矢先に篠田、武川両私選弁護人が選任されたため、遠藤弁護人は、国選弁護人を解任されていないものの事実上弁護活動ができない立場となつていたところ、第一〇回公判期日に右私選弁護人両名が無断退廷したことから、裁判所から出頭要請を受けるに至つたものであるが、これに応じず、また、その後の各公判期日についても、私選弁護人の不出頭又は無断退廷があつたことから裁判所がその都度出頭方を要請したのに出頭しなかつたのである。

遠藤弁護人の不出頭の理由は、同人提出の上申書(前記一の33)によると、「自分は被告人との信頼関係の全くない国選弁護人の立場にすぎず、被告人が自ら選任した私選弁護人が存在し、被告人の信頼を得てその弁護活動を展開している以上、その当不当はともかく被告人及び私選弁護人の弁護方針に反する弁護活動をすることは、国選弁護人の立場として、また同じ弁護士としての職業倫理観からできない。また、被告人が私選弁護人を選任しているのに、自分が出頭して被告人の意に反する訴訟手続を進行させたら、被告人が激昂し、先に被告人から告知されている自分らに対する脅迫文言が現実化することが危惧され、不安を抑えることができない。」というにある。

ところで、遠藤弁護人は、当初、かりに被告人の審理拒否の目的に反することがあつても、弁護人として本件審理の異常な状態を解消し、その正常化を期すべく、裁判所の要請により、誰れも引き受けようとしない本件の国選弁護人を引き受け可能な限り被告人の利益のために弁護を尽くそうという考えから、国選弁護人に選任されたものであり、そのことのために、あくまでも審理拒否の目的を貫こうとする被告人から、北川弁護人と同様に、昭和五八年九月一九日の未明などに脅迫を受けて公判期日に出頭しないように強制されたこともあるのに、これにも屈せずなおも出頭して法的手続で被告人の弁護活動をしようとする意向を変えていなかつた矢先に、突如篠田、武川両弁護士が私選弁護人として登場し、裁判拒否を信念とする被告人の信頼を受け、その意図のもとに審理遅延戦術等の弁護方針をとり、これを実行に移すに至つたのであり、このことは、遠藤弁護人にとつて全く予期せざる事態であつて、同弁護人はこの不当な法廷戦術に同調するわけにいかなかつたのであるから、その不出頭の理由はやむを得ざるものがあつたといわざるを得ない。

もつとも、このような立場にある弁護人についても、国選弁護人を解任されていない以上、裁判所の要請に基づき公判廷に出頭して被告人の利益のため可能な限りの弁護を尽くすべき義務があるという議論もあり得るが、しかし、被告人から解任要求を受け、被告人の信頼を全く受けていないいわば補充的地位にある国選弁護人としての遠藤弁護人に対し、公判廷に出頭して被告人及び私選弁護人の明確な意思に反し、私選弁護人の弁護方針と対立する弁護活動を期待することが果たしてできるであろうか。

のみならず遠藤弁護人の不出頭は、被告人の言動、ひいてはこれに同調する私選弁護人の言動に帰責事由があるというべきである。すなわち、被告人は、裁判拒否の目的を達成するための恣意的行動によつて極めて異常な事態に立ち至つている本件訴訟について、その審理正常化を期すべく裁判所の要請を受けて国選弁護人を引き受けた遠藤弁護人に対し、いわれなき非難を加え、公判廷に出頭すると訴訟が合法的に進行し被告人の意図する審理拒否の目的が果たせないとして脅迫の所為にまで及んで出廷を断念させようとするとともに、被告人の意図に同調する篠田及び武川両私選弁護人を選任して遠藤弁護人の出頭阻止を図り、私選弁護人両名も被告人と結託して無断退廷、不出頭を繰り返しながら、遠藤弁護人に対しては暗に法廷に出廷しないよう働きかけ(昭和五八年一二月一五日の事前打合せ調書、昭和五九年一月一四日の事前打合せ調書参照)、同弁護人の国選弁護人としての訴訟活動を妨害する行動をとつているのである。このような被告人及び私選弁護人の行動は、遠藤弁護人に辞任を強要し同弁護人をして出廷不能の心境に追い込んでいると評価せざるを得ないのであり、遠藤弁護人が出廷しなかつたのは被告人らの責に帰すべき事由によるもので、これによつて生ずる不利益は被告人自らが甘受すべきものである。しかも遠藤弁護人は私選弁護人によつて事実上出廷を妨害されていると見ることもできるのである。このような場合には、遠藤弁護人不出頭のまま行なわれた公判審理は刑訴法二八九条の例外として許容されなければならない。

5  結び

本件公判審理は、前記のように、極めて異常な経過を辿つたものである。当裁判所としては、努めて弁護人を刺戟することのないよう柔軟に対応したつもりである。当初の国選弁護人は裁判官と被告人との対話を強く要請したが、裁判所がこれを拒否した(未だ公判手続の更新すら行なわれていない段階で裁判官が刑事被告人と非公式に会つて意見を交換することの刑訴法上許されないことについては説明の要なし)ことを別とすれば、第九回公判期日には、できる限り弁護人の要請に応えるべく、武川弁護人退廷後の審理を打切り次回期日を追つて指定とし、弁護人が裁判所の右の如き善意に応えることを期待したのであるが、結果はその逆であり、それ以後の私選弁護人の行動は、期日指定を行なわないよう陰険なやり方で対応してきた挙句、被告人と共同して審理妨害に徹したのである。当裁判所としては、控訴審判決の趣旨に則り、弁護人不在の法廷のないことを願い、心胆を砕き努力してきたのである。しかし現実には弁護人不在のまま審理し結審したのであつた。まことに痛恨の極みである。

ここに想起されるのは第八四回国会に提出されその後廃案となつた「刑事事件の公判開廷についての暫定的特例を定める法律案」である。本件審理の経過からすると、本件は、私選弁護人に関する限り、同法律案に規定する要件(二条三号)を充すこととなり、弁護人不在廷のまま審理できる場合に該当する。当裁判所は、最初の起訴(昭和四四年四月五日)以来既に一四年余を経過した本件につき、差戻し後の第一審を速やかに終えることこそ、司法への国民の信頼を繋ぐ所以であると思料し、又刑訴法二八九条の例外に該当する已むを得ない場合として、弁護人不在のままで審理し結審し、判決に至つたものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 川口公隆)

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